Prologue
序:私は何者か
私は、北海道の北見市という街で生まれた。
焼肉の街、カーリングの街、玉ねぎの街。
「あなたは河川敷で拾ってきた子だ」と教えられ、母1人、子1人の家庭で育った。忙しい母に代わって面倒を見てくれたのは、祖父母だった。
周りからは「お婆ちゃん子」と呼ばれたが、しつけの厳しかった祖母を好きだと思ったことはそれほどなかった。祖母の死後は「お爺ちゃん子」と呼ばれたが、甘やかしてくれる祖父を父親代わりにしていただけだと思う。祖父は人間らしさがあって好きだったし、私を大事にしてくれたし、境遇を聞いて立派な人物だと思って尊敬していた。
我が家は裕福な家庭ではない。
幼い頃から常に「お金がない」というコンプレックスを感じて育ち、今も私の中に妖怪のようにへばりついている。油断すると妖怪が顔を出してくる。
母子家庭で育った私には、父親という存在がいない。
それは単に家族の形の話ではなくて、「人として、どういう大人になっていくべきか」というビジョン(理想)が、自分の中から完全に欠けていることを意味している。
30代になった今でも、自分に社会性が欠如していると感じる瞬間、心のどこかでそれを育った家庭環境のせいにしてしまう自分がいる。
ただ、社会性の欠如は私の最大のコンプレックスであると同時に、既存のレールに乗らずに生きてこられた強みでもある。
何かを失えば、何かが得られるという、世の中はバランスよくできている。
理想とする大人像がないからこそ、手探りで、自分の直感だけを信じて生きるしかなかったといえる。
私は高校卒業後、尊敬する先生の影響で北から南へ、琉球大学へ進学した。
高校生の頃たまたま本屋で手に取った本に書かれていた「大使館での仕事」に惹かれ、大学では英語とスペイン語を専攻した。18歳から22歳という時期は、ただ純粋に、自分の興味が赴く方向にエネルギーを注ぐ時間だった。
1年生の時は、とにかく「圧倒的に一番、スペイン語ができる学生」になろうと必死に勉強したが、2年になり、教授と反りが合わなくなると、私はあっさりと語学によるキャリアアップの道を捨てた。
代わりに打ち込んだのは、自転車でのロードトリップや、バックパックを背負っての海外貧乏旅行だった。そこには目標なんてない。ただ、興味の向くままに心と身体を動かしている瞬間だけが、自分を確かめられる時間だった。
そんなモラトリアムの終盤、私を打ちのめす出来事が起きる。
道端でスペインからの留学生の知り合いと偶然出会い、スペイン語で会話をしようとしたのだが、何も会話できず相槌をするばかりになってしまった。
「4年も時間をかけて日常会話すらできないなんて、自分はなんて情けないのだろうか。」自分のレベルの低さを突きつけられたあの時の強烈なコンプレックスは、今でも鮮明に覚えている。
私は「新卒就職」というレールを蹴り飛ばし、スペインへの留学を決意した。留学に行って、大使館の仕事に応募すればいい。それがダメなら大学院に行けばいいと思った。
とはいえ、留学するお金はなかった。実家は細いし、バイト代は生活費に消えていく。留学するためには学費・現地での生活費・そして航空券が必要だった。
そんな大学4年の時、スペイン語弁論の記念大会が開催される。
優勝の副賞は「スペイン往復航空券」。
私にはそれが必要だった。
4年生にもなってフル単位の履修授業と、夜通しの卒論執筆に追われながら、私は毎日朝まで弁論大会の準備に取り組んだ。そして、意地で優勝をもぎ取った。
「目標に向かって、ひたむきに打ち込んで努力し、そして次のステージへ進む」この体験は、私の中にひとつの強烈な成功法則を刻み込んだ。
学士という学歴以外何もない20代の私。
けれど、自分の弱点であるコンプレックスに対して、熱量を注ぎ込んで諦めずに取り組むことで、自分の力で道を切り拓くことができるということを学んだ。
その「熱量の矛先」が数年後、コーヒーという仕事へ向かうことになるとは、当時の私は知る由もなかったのだが。
スペインでの生活は自由気ままだった。
もちろん苦労は多かったが、自分の価値観が広がる素晴らしい時間を過ごした。相変わらずお金はなかったので、AirBnBで勝手に部屋を又貸しして生活を凌いだ。
そしてスペインでの1年間の奮闘の末、私のスペイン語は想像以上にネイティブのレベルに達し、一番上のクラスに在籍し、DELEのB2レベルを取得した。
正しい方向の努力は自分を裏切らない。
それは単に勉強ができるとかいうことじゃなくて、人生の法則だと思う。
帰国するタイミングでは、自分の中には想定していた通りの選択肢があった。このまま語学を極めて大使館や外務省で働くか、あるいは大学院へ進むか。
しかし、いざ「ネイティブとの会話」というコンプレックスを克服してしまうと、これ以上スペイン語を続けるモチベーションは完全に消えてしまっていた。思いの外、飽き性なところがある。
憧れていた大使館の仕事も、実態を知れば知るほど色褪せて見えた。渡航前に大量の予防接種を打たれて、低い賃金で「便宜供与」という名の雑用を延々とこなす仕事。そんな滅私奉公の未来に、貴重な20代の時間を捧げようと思うほど心がときめくことはなかった。
そしてその当時、より現実的な問題にぶちあたっていた。お金だ。
いつも私はお金で悩まされる。
スペイン生活の後半、AirBnBの稼ぎだけでは足りず、すべてをクレジットカードの後払いで凌いでいた。
当然、帰国後は支払いの波が押し寄せてきた。未来の自分に頼りすぎたツケを払うターンだ。
住む家も生活費もない私は地元の北見に戻り、目の前の借金を返すため、携帯電話の営業の仕事と日雇い派遣を掛け持ちした。2ヶ月ちょっとだったが、すごく嫌な時間だった。
日雇いの仕事は、空き家の解体と片付けだった。劣悪な環境での肉体労働。
運転手が居眠りをしたせいで、あわや交通事故に巻き込まれそうになった。
その時、理屈ではなく身体で理解した。
自分の人生の時間という「資本」をお金に交換するのが、資本主義における労働なのかと。「命を燃やして金に換える」とは、こういうことで、「身体が資本」という言葉の本質なのだと。この経験が、私の雇用労働や自己投資の考え方に大きく影響している。
とりあえず借金を2ヶ月で完済し、北見にいる理由が無くなった私は「東京に行こう」と思った。しかし、上京するための資金がなかった。こういうことを振り返るほど、計画性のない自分が嫌になる。
ということで、ひとまずワンクッション置くつもりで、札幌に移り住んだ。
大卒で就職せず、フリーターになってしまった自分。
「そんな今の自分にしかできないことは何か?」
自問自答している時期、「マツコの知らない世界」でコーヒールンバの平岡佐智男が喫茶店の魅力について語っているのを観た。
それを観ながら脳裏に浮かんだのは、スペイン留学時代に毎日のように通った「バル」の光景だった。
異国の地で孤独だった自分を救ってくれたのは、カウンター越しに交わされる他愛もないコミュニケーションだったのだ。
「これは、今しかチャレンジできない仕事かもしれない!」
そう思い立ち、私はアルバイトとしてスターバックスに入社した。
大学時代は塾講師や営業職のバイトをしていたので、人生初の飲食店アルバイトだった。
なぜスターバックスだったのか。それは、社長であるハワード・シュルツがイタリアのバルに強烈な影響を受け、そのオペレーションをスターバックスの根幹に据えていたからだ。
このバルへの憧れが、コーヒーを生業にした私の人生のはじまりだ。
スターバックスでの日々は、充実そのものだった。
究極に効率化されたオペレーションと、パーパス思考の接客文化。
毎日学ぶことが多く、今の自分を支える基礎になったことは言うまでもない。
入社直後にあったブラックエプロン試験では、一発で合格をもぎ取った。
スペイン語に打ち込んで一番になった自分にとっては、2ヶ月あれば容易かった。
色の違うエプロンを着けると、周囲からは「コーヒーのプロ」として見られるようになる。自分でもそれなりの知識を手に入れたと錯覚していた。
そんな「コーヒーのプロ」である私は、コーヒーの「酸味」が苦手だった。
今も世の中の9割のお客さんがそうであるようにマンデリンしか飲まない「初心者」だ。この過去があるから私にはコーヒー初心者の気持ちがよくわかる。
だが、ある日フレンチプレスで淹れられたエチオピアを飲んだ瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。
「なぜ、このコーヒーは酸味があるのに美味しいのか?」
コーヒー沼に足を踏み入れた瞬間だった。
「そんなにコーヒー好きなら」と、尊敬する先輩に勧められた近所の知る人ぞ知る自家焙煎店へ通うようになった。
そこでは毎回20種類以上の、見たこともない豆が並んでいた。
しかも行くたび銘柄が違うという変態っぷり。
このイズムは私も真似している。
中でもエルサルバドルのコーヒーは、どれを飲んでも新鮮な驚きがあり、果実味に感動できた。コーヒーの持つ圧倒的な味わいの多様性を中米の小国から学んだ。
私のブランド名「Salvador Coffee」は、この時の衝撃から名付けられている。さらに、驚きは東京にあった。
友人のバリスタに勧められて訪れた東京・代々木の『Fuglen』。
そこには、枠に囚われず、生き生きと自由に働くバリスタたちの姿があった。「こんな職業が、この世にあるのか」と心が震えた。
そして神保町GLITCHで飲んだ一杯。
当時の札幌では絶対に出会えなかった、未体験の味わいと、接客スタイル。
自分がスタバで身につけた知識なんて、ほんのわずかな要素に過ぎなかったのだ。「コーヒーを取り巻く環境って面白い!もっと知りたい!」
私はスタバで働きながら、『Fuglen』と同じスレイヤーエスプレッソというマシンを置いているカフェで掛け持ちバイトを始めた。
そういう試行錯誤の中での探求は面白かったが、現実の私は相変わらず不器用だった。持ち前の「社会性のなさ」からスタバですら人間関係の摩擦に苦しい、居心地の悪さ感じ始めていた。
「成長を止めないために環境を変えたい。」
ちょうどその頃、東京・中目黒に巨大なロースタリー(焙煎所)がオープンするタイミングだったので、社内異動を申し込んだ。いよいよ東京へ行くタイミングが来たのかもしれない。ここに行けば、もっとコーヒーを極められるはずだ。そう思った。
ところが、運命はひねくれていた。
東京行きを熱望する一方で、私は掛け持ちバイト先の近所で偶然見つけた「山鼻」の空きテナントを、ひそかに内見していたのだ。それが、店長にバレた。
「自分で店をやる気がある人間に、推薦は出せないよ。」
中目黒ロースタリーへの社内推薦は、あっさり取り下げられた。
東京への道が絶たれた。職場での居場所もない。
手元に残されたのは、情熱と、見切り発車で内見してしまった山鼻の小さなテナントだけだった。「もう、自分でやるしかないのかもしれない」
これは道を選んだというより、運命に押し出されるような形だった。
2018年7月。私は、東京・中目黒への希望を胸の奥にしまい込み、札幌・山鼻の地でSalvador Coffeeの独立開業を目指すことになる。
ちなみに自分でも信じられないのだが、自己資金10万円、親から借りた20万円、それを元手に融資100万円。それが、私の開業資金のすべてだった。
大丈夫、スタバで身につけた知識とオペレーションがある。
どうすればお客さんが再来店するのか知っているし、利益の残し方も学んだ。抜かりないスタートアップになるはずだった。
しかし、10月末に開業して12月に入る頃、私は早くもキャッシュフローの問題に叩き潰される。
リスク管理を徹底したおかげで開業直後から黒字ではあったが、いかんせん売上が小さいので、このままの成長スピードでは、借入の返済が本格化する2月には確実に資金がショートしてしまう。
お客さんは急には増えない。という前提で、生き延びるための作戦を立てる必要があった。
「自分を応援してくれるお客さんが、どうしたら納得感をもって高単価を払ってくれるのか?」「週に1日来る人を、週に2日、3日来たくなるようにするにはどうしたらいいのか?」
必死に考えて出した結論は、「曜日ごとに違うことをして、ファンを増やすこと」だった。日本マクドナルドの創業者である藤田田の本を読み、「朝マック」の戦略から得たヒントだった。
朝マックは、マクドナルドの中に朝限定の店舗が間借りしているイメージで始まった戦略だった。つまり、時間帯や曜日ごとに別コンテンツを立てて、複合店にしてしまえばいい。
水曜日はパンを使ったビストロメニュー。
金曜日は薬膳スパイスカレー。
そして週末は、毎回内容が変わるデザートメニュー。
月毎にテーマを決めて、コーヒー以外のドリンクもスタバさながらに新しいものを作り続けた。
それらは決して、自分のやりたいことではなかったが、「コーヒーで生計を立てる」というロマンとのバランスを取るのに必須だった。
様々な角度への取り組みが功を奏してメディアへの露出も増え、目論見通り「曜日ごとのファン」ができたことで、新規の来店数と客単価は一気に向上した。
この作戦で半年間粘り続け、開業前の先行投資で後払いにしていた負債を回収し、店はようやく軌道に乗った。よく頑張ったと褒めてやりたい。
「好きな店だから、長く続けて欲しい」と言って通ってくれる常連さん。
「こんなコーヒーに出会ったの初めてです」と感動してくれるご新規さん。
「ここに来て、いろんな繋がりが生まれて人生が変わりました」と報告してくれる仲間たち。
その循環が少しずつ大きくなっていき、たくさんの人の人生に関わっている実感を得た時、「まじめに取り組んできてよかったな」と心から思えた。
日々の売上に生活を脅かされることなく、やりたいことにチャレンジできている瞬間。そこに、私は確かな「平穏と安定」を手に入れた。
思えば、20代の頃の私は「何者かになりたい」なんて微塵も思っていなかった。ただ直感をたよりに真っ直ぐ、コンプレックスと戦って、そして縁に導かれるように突っ走ってきただけだ。
けれど、気がつけば自分が「何者か」になったのを感じていた。
スタバを辞めた時は店長から「あなたは何者かになる人だと思うから。」と言葉をもらった。まあ、ただ社交辞令だとは思うのだけど。
今では東京でも知り合いがたくさんいて、自分の店を知っていてくれる。
もちろん東北でも、北陸でも、関西、中国、四国、九州、沖縄、そして海外からすらも、「Salvador Coffee」の名前を知ってくれている人がいる。
札幌・山鼻で創業した小さなコーヒーショップは、店を守った自分と、店を愛して通ってくれたお客さんの力で、ここまで大きく育ったのだ。
この8年の積み重ねが、東京に行くという新たなチャレンジができる下地を作ってくれた。
ちなみに、この文章は中目黒のスターバックスロースタリーで夜な夜な書いている。過去に千切れた世界線と繋がった瞬間。仕舞い込んだ希望の地。
なんだか感慨深いものがある。